手洗い

handwash

 忘れられない患者がいる。研修医のころ出会った40代の男性だ。短い出会いだった。というのは彼が病院に来たときにはすでにある癌の末期だったのだ。
 彼には小学校4,5年の男のお子さんがひとりいた。最期の日々、その子も父親の病室に出入りしていたに違いないが、もう二十年以上も前のことだ。会話をしたかどうかさえ覚えていない。ただその子が最後に叫び続けた言葉だけはどうしても忘れることができない。


 唯一の治療は痛みを薬で押さえることだった。その影響で患者の意識は朦朧となりつつあったが、それでもなんとか返答はできる状態だった。だが確実に病魔は進行していた。そしてある日の夜、ついに病魔は彼の心臓と呼吸を捉えてしまう。
 看護婦とともに入った病室には妻と子供がいた。親類が来るまでなんとか生かせておいてくれるようにとの患者の妻の願いに沿うよう、形だけの心臓マッサージを行う。それをしないと心電計の波形は平らなままだ。画面に描かれる不自然な波を見ながら胸を押し続ける。その途中で看護婦がバックを使って患者の口に酸素を送りこむ。いくらやっても事態は改善しないことは承知の上だ。だがそうしないと病魔さえ彼の身体から抜け出してしまう。むなしくても病魔と闘っている姿を見せる必要があった。
 そうしたむなしい行為をなんどか繰り返していたときだ。
 そばで見ていたその子が叫んだのだ。父さんが泣いている、と。
 見ると確かに患者の目から涙がこぼれ落ちている。目から出てくる液体が涙というのならそれは涙だろう。
 だがそれは泣いていることを意味しない。病魔との闘いを終えた全身の筋肉が永遠の安らぎを得た事実を告げているだけなのだ。涙腺の筋肉も例外でなくそこにたまっていた液体が、倒れた花瓶の水がこぼれるように自然に流れ出ただけなのだ。
 だが家族の目にはそうは映らない。たとえそのときそう説明を聞かされても理解できなかっただろう。そばにいた母親も「泣いている」と子供と同じ言葉を繰り返し始めた。
 だがどんな涙もいずれ枯れていく。彼の涙のあとが乾くともに二人の声は嗚咽に変わっていった。
 病院から患者が運ばれていく車を見送ったあと、わたしは病棟の水道水で手を洗った。
 蛇口を思い切りひねり重い鉛のような水を両手に当てる。それからゴシゴシ、ゴシゴシと両手をこすり合わせ続けた。
 
 宗教などで見られる身を清めるという行為と道徳的な清廉さには関連があるのかどうか、カナダの研究者たちは関心を抱いた。殺人を犯したあと手に付いた血を絶望的に洗い流そうとしたマクベス夫人にちなんでか彼らが名付けた”マクベス効果”なるものは存在するのだろうか。これを確かめるため大学生を被験者として実験を行ったという記事があった。
 倫理的ではないことをやった記憶をたどっているものは、潜在的に身体をよく洗うことを願っているという内容だ。
 罪を物理的に身体を洗うことで洗い流そうという願望があるという。
 この記事を読んであれこれ考えているうちに昔のことを思い出し、それをたどっているうちに記事の紹介などどうでもよくなってきた。
 医療の現場では手を洗うことが多い。感染源になるものが周囲にあふれているからだ。
 見えないけど手についた微生物を懸命に手を洗い流す。なにも考えず機械的に手をこすり合わせれば微生物は流れていく。患者の治療がうまくいこうがいくまいが、それは冷徹な儀式として行われる。
 ただあのときは違う。
 あるいは心についたシミを流そうとしていたのかもしれない。
 悲しみというシミを懸命に洗い落とそうとしていたような気がする。

ネタ元
Washing Hands Reduces Moral Taint

“手洗い” への2件の返信

  1. 今年の初め頃、Reiちゃんが癌ではなかろうかと心配しました。
    しかし不思議と僕には闘う覚悟ができていました。
    何の不安も恐怖もなかったと言えば嘘になりますが、立ち向かっていく意思、そして彼女を支えていこうという気持ちがそれらのマイナスイメージを弱くしていたのは事実でした。
    結局は大丈夫だったのですが、いつどうなるかわからないもんだと痛感しました。
    このメモを読んで改めて命の大切さを実感し、日々がんばっていこうと思います。

  2. なにもなくてよかったですね。
    前向きの考えが一番なんですね。

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