いつもながめている ananova.com の記事に目がいった。題は”Man turns up at his own funeral”、つまり、”自分の葬儀に戻ってきた男”、というものだ。
交通事故での遺体身元確認ミスで、葬式をやっているときに本人が現れたという内容なのだが、興味を惹かれたのは記事の内容ではない。”funeral”つまり”葬儀”という文字がある老人の記憶を呼び起こしたのだ。
80を越えたその老人はまるで診療が暇なときを見計らうかのように来院していた。そして自分の人生話を聞かせてくれるのだ。老人が来院しなくなって2年近くになる。来院されなくなった事情は知る由もなく、元気でおられるのを願うばかりだが、funeral という文字でよみがえったその老人の記憶を、今日はメモしたい。
任侠道まっしぐらの人物だった。なかには血なまぐさい話もあったのだが、決して利己的行為ではなく職場の仲間のための刃傷沙汰だったという。そんな風に書くとやくざのようだが、本人にいわせれば決してやくざではない。やくざの方から頼ってこられることもあったけど、そして彼らのために一肌脱いでやったけど、決して彼らとは交わろうとはしなかった。
そんなこんなの昔話を概ねにこにこしながら-というのは外見は好々爺なのだが、眼光が一瞬するどく変わることもあったのだ-語る老人は間違いなく、人生のなにかとんでもない重荷を抱えていたに違いない。それがなにかを記すことができないが、人が知って置かねばならない重要なこと、そんなものをいっときも休むことなく老人は抱え続けた。そんな勝手な人物像を作りあげ、いつかそのヒントでも聞かせてもらえるのではないかと、興味津々で耳を傾けていたが、いっこうに手の内を見せる気配はない。どうみても重荷を抱えている風にしか思えない話なのだが、そのうち重荷なんて、老人にはどうでもいいことだったのではないかと納得するようになった。ようは心の思うままに行動してきた人なのだ、そう思うとますます好感がもてたのだった。
そんな老人が冬のあるとき、ロングのウィンドウブレーカーを着てやってきたことがある。黒のウィンドウブレーカーだった。診察室に入ってきた老人はすぐにそれを脱ぎ、机の横にある脱衣箱に置いた。やがて診療が終わり、老人は立ち上がり一言二言季節のあいさつをしながら再びウィンドウブレーカーに腕を通した。そしてこちらに背を向け診察室のドアに向かったのだが、気づいたのはそのときだった、ウィンドウブレーカーの背中に”funeral”という文字-FBIと書かれたジャケットを着た人物を映画かなにかでみたことがあるが、そんなカンジの-が大きくプリントしてあったのだ。
すぐにそのウィンドウブレーカーはどうしたのか、後ろ姿に問いを掛けると、老人は振り返りドアを閉めながら人からもらった、と笑いながら答え、そして閉まるドアが二人の会話をさえぎった。
その冬、それから何回か老人はそのウィンドウブレーカーを着て診察に来たのだが、結局こちらから質問は一切しなかった。
背中に書かれている文字の意味は知っているのか、人から意味を聞かれたことはないのか、入手先はどこなのか、いろいろ疑問はあったが、文字が文字だけに訊くのをはばかれたのだ。
どう転んでも重い内容を背負ったウィンドウブレーカーだ。老人の方から一度もその文字の説明はなく、したがって文字の意味を知ってはなかったと推測はしているのだが、でも老人にはどうでもいいことだったのだろう。
ようは心の思うままに行動してきた人なのだ、そう思うと老人にふさわしいウィンドウブレーカーだったのだなと今更ながら感心するのであった。