あなたの大切な人が手術を受けることになったとしよう。その人はストレッチャーに乗せられ手術場まで運ばれる。廊下を進むあいだ、あなたは大切な人に寄り添って歩くことだろう。
やがて手術場の扉が見えるはずだ。その前でストレッチャーは止まり扉が開くのを待つ。だが残念なことにそれから先はあなたは入れないのだ。
あなたは大切な人の手を握り激励の言葉をかけるだろう。大切な人はそれに頷くはずだ。その顔をみつめていると、もう会えないかもしれないという不安がふと頭をよぎる。なにか今自分にできることはないか、必死で考えをめぐらすだろう。そしてすぐに気づく。
祈りだ。そう今自分ができることは祈ることだ。あなたはその人の耳元でこう囁くことだろう。
「祈っているから」
だがこれは禁句だった。この一言で大切な人の手術ならびに術後の経過がうまくいかなくなる可能性が増えるかもしれないのだ。
マサチューセッツのある大学の研究者がはたして「祈り」に効果があるかどうか調べてみた。
対象は心臓の冠動脈手術を受けた1800名だ。実験が行われていることはすべての患者に知らされている。
患者は祈りを受けるAグループと、受けないBグループに分けられた。Aグループはさらに祈りを受けているかどうか患者と医者は知らされていないAaグループと知らされたAbグループに分けられた。
Bグループも患者と医者は祈りを受けているかどうかは知らされていない。
さて何人かのキリスト教信者がその患者たちのために祈ったのだが、手術後1ヶ月のあいだのなんらかの合併症の有無を調べてみると、Aaグループでは52%、Bグループでは51%と差が認められなかった。
だがAbグループでは59%もあり、Aaグループより統計的にも高い結果が出た。
つまり祈りがあろうがなかろうが結果は変わらなかったが、祈りを捧げられていることを知らされると結果は悪くなるというのだ。
プレッシャーが影響しているかもしれないなどと研究者は語ってはいるが、正直なところ理由は分からないようだ。
だが理由などどうでもいい。明日から信仰の道に入ろう。そして毎日カミさんのことを祈り続けよう。
ただ祈りだと分かれば、なんのために祈っているか聞かれるに違いない。本当のことをいえば手術を受けるハメになる。
でも祈りだと相手に知れないと効果はなさそうなのだ。
悩んだあげくに思いついた案はこうだ。
祈とう師のように身体を動かしながらやってみたらどうだろうか。派手にやった方が効果がありそうだし。
カミさん「どうしたの?食べたドッグフードが当たった?」
院長 「あ、新しいダンス」
カミさん「いいノリしてるじゃない」
…ね。