たまたま2

(前日のメモから続く)
なぜ入れ替えると元に戻るのか、なぜ説明になっていないのか。それは夢の話は関連があるかもしれないのに対し、おそらく関連がない可能性がきわめて高い、歯を磨くような例を持ち出しているからだ。例を使うなら、内的関連がありそうな事柄でなくてはならない。たとえばスイッチを用いてみよう。


スイッチを押した-電灯が点く
スイッチを押した-電灯が点かない
スイッチを押さない-電灯が点く
スイッチを押さない-電灯が点かない
この例では歯磨きとは逆にこんな展開も可能である。
「スイッチを押したせいで電灯が点いたと思うだろう」と息子に問えばきっと息子は賛成してくれるだろう。このパターンと夢のパターンは一緒だ。だから夢を見たから○○さんは死んだのだ、と諭すことだってできるのだ。
でも「スイッチを押した-電灯が点く」のパターンに出てくる二つの事柄には本当に関連があるのか、考えてみる必要がある。
一つの家のなかのスイッチでは電球が切れていたりスイッチが壊れていなければまず電灯は点く。では隣の家の電灯の場合だったらどうだろう。隣家であるこの家のスイッチを押したら点くだろうか。多くは点かないだろう。だが、たまたま隣の人がスイッチを入れたら点くことになるかも知れない。この思考実験をもう少し進めて、たとえば日本の上空からスイッチを押したらどうだろう。母集団がこれほど大きくなると、きっとどこかの家の電灯がつくことになるはずだ。ひょっとするとスイッチを押した者の家の電灯も点くかも知れない。
だからといってスイッチを押すことと電灯が点いたことの間にはなんの関連もないのだ。
このスイッチのアナロジーを坊やの夢に当てはまめるとこうなる。
宇宙ステーションに坊やが乗り込み、○○さんが死んだ夢を見た。その遙か下の地上ではいろんな理由でその瞬間にも多くの人が死んでいる。そのうちの1人がたまたま○○さんだった、と。
「たまたま―日常に潜む『偶然』を科学する」という本のなかではこうした説明ではなく読んだときはよく理解できなかったが、その本の著者がいいたかったのはきっとこういうことだったのだろう。
それはさておき、この坊や親たちが出てくるくだんの小説に話しを戻すと、もちろんこんな理屈をこねるようなシーンは限られており、きちんとした小説の形式で物語りは進むのだが、それにしてもおもしろくなかった。なぜ賞を2つも獲ったのか。そこには、たまたまではないなにかがあるような気がしてならないのだが。

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