マリアナ海溝

南の島のそばにはマリアナ海溝がひそかに横たわっている。世界で一番深いところだ。人生の深い闇をくぐってきたものだから分かる。きっと二番目に深いところより暗く、冷たいところだろう。
でもまさか魔物などいるはずはない、そうたかをくくっていたのが間違いの元だった。なんといたのだ。それも結構浅いところに。

南の島に来た以上、海水を浴びない訳はない、ということでホテルのプールから通じる浜に出てみる。
小学校では浜辺の遊びという授業はなかったようで、サルのように海水でじゃれ合うだけの子供らを見て不憫に思い、浮袋を頼りに海に漂うことを提案した。楽しそうな父のアイデアに、二人は仕方なくお尻を突っ込むような格好で浮き輪に乗り、こちらはバタ足で浮き輪を押しながら、三人は沖に向かって進んでいく。

沖といっても浜からそれほど離れるわけもないが、マリアナ海溝に飲み込まれるのもいやだから、じゃあそろそろ戻ろうかと提案する。祭りの終わりのようなさびしい父のアイデアに大喜びする二人のため、向きを変え、バタ足から平泳ぎにキックに変えたときのことだ。右足に衝撃が走った。足の親指あたりで浅瀬にある岩を思い切りキックしてしまったのだ。

すぐに足を海面に上げ状況を確認すると、やはり通り血が出ている。
まっさきに頭に浮かんだのがサメだ。ジョーズがくる。
そう思うと、子供らにも手と足を総動員させて浜へ急ぐ。もしやつが来たら、こっちがうまいぞと子供らを差し出したものか迷っているうちになんとか浜にたどりつく。

子供らを母親にまかせ、とにかくホテルのプールサイドにあるプール受付の円形東屋に急ぎ、そこの黒人男性に消毒したいと伝える。
「I hurt my leg」「I want to sterilize」もちろん時制や発音などかまってられない。
男性はなにかいっていたが、まさか「背中にジョーズがかみついている」ではないだろうと待っていると、ごそごそなにやら瓶を2本テーブルに置いた。どちらがいい? そう問うているようだ。

ラベルを見ると、それぞれ「Ethanol」と「Hydrogen Peroxide」の文字を確認できた。とっさにHydrogen Peroxideの方を指さす。

OKとうなずく男性の指示に従い、東屋のなかに入って椅子に腰掛けると、男は口笛で音楽を奏でながら手当を始めた。
ガーゼで丁寧に傷を消毒してくれる。ジュワと泡立つ消毒液、よく見ると深い傷でもなさそう、はずれた音程で続く口笛、もう1回と注がれた泡立つ消毒液、なんとか気も落ち着いてきた。

そして、さきほどの2者選択に考えが及ぶ。
優秀な医者だからこそ、そして選択肢が2つしかなかったからこそ、正しい選択ができたのだが、運悪くエタノールを選んでいたらやはり、傷にはまずいのではなかっただろうか。

そもそもエタノールは細菌の細胞の膜を破壊することで細菌を殺すのだ。皮膚は強固な皮に覆われているから手などの消毒には適しているが、傷口は生身の細胞がむき出しになっている状態。そこにエタノールを注ぐことは、細菌だけでなく正常の細胞も障害することになる。つまりエタノールを使うことは傷には毒なのだ。

「エタノールは使用毒液」、そうナイスガイに教えたかったが、意味と洒落を説明するのは、マリアナ海溝の海底にたどりつくぐらい難しいだろうと思うのであった。