Potatoの発音がポテェィトゥであるのを教わったのは中学の英語の時間だ。教科書を手に、もう一方の手を後ろに回した教師がゆっくりと机の間を歩く。その歩調に合わせるように言葉を口にする。
「ポテェィトゥ」
それを生徒が繰り返す。
今までポテトだったのがポテェィトゥになった瞬間だ。羞恥心も手伝ってうまくいえない。だが繰り返していくうちに、ポテトがポテェィトゥになっていく。
それは田舎の小さな学校に、異文化の光が一筋差し込んだ瞬間でもあった。
このポティトゥを駆使して国外に出る。いつか世界をまたに駆けめぐる日が来るのではないか。明確な思考ではなかったかもしれない。だが、確かにそれに似た感情を抱いたのは間違いない。
だがどうだ。ポテトを口にすることはあっても、ポテェィトゥを口にする日々はとうとう来なかった。
なにがいけなかったのだろう。
人生を考えすぎたからだろうか。いかに手を抜くかをあまりに考えすぎたからこうなったのだろうか。
それともトメィトォを人生の軸に置くべきだったのか。
トマトを囓り、こんな映像を見ながら悩んでいる。