一円玉

 昨日、連休ということで北九州の高台、皿倉山に遊びに。ケーブルカーで山頂にまでたどり着き、国民宿舎のレストランでコーヒーを飲みながら、ぼんやりと時間を過ごす。
眼下には、小さく見える工場や家並みが洞海湾を中心に遠くまで広がっている。それをながめてると、そこには人の営みが確かにあるんだけど、どうしても薄っぺらな存在としか捉えられないという、なんだか不思議な感覚になってきてしまって。
 世俗を離れるというか、まぁときには、日常とは違うシチュエーションに浸るのもいいかなと、改めて思ったりした。


 でね、国民宿舎のロビーを抜けて外に出ようとしたとき、コックさんがソファに座ってなにやらされているのに気づく。見ると、小銭の入った小さなケースを前に置いて、コインを一つ取り出しては、なにか確認してまた戻すという作業をされていた。
 なんだか興味が湧いたので訊ねると、コックさん陽気に、これも前に置いて広げてあったスポーツ新聞を指で差しながら説明してくれた。
 平成12年から14年の一円玉がコインショップで500円で取り引きされているという。確かに記事にはそういう内容が書いてある。なんでもその時期、新500円玉を作るのに労力が裂かれ、一円玉がたくさん作れなかったそうな。
で、コックさん、何百枚もありそうなケースのなかを探していたらしんだけど、結局なかったみたい。
 確かに誰だってそんな話を聞くと、調べたくなるよね。さっそくボクも財布のなかを改めてみた。お札も少ないけど、コインも少ない財布のなかにある一円玉はたったの3枚。しかも全部、目指す年度のものじゃなかった。
 ということで、薄っぺらな一円の存在が、たちまちのうちに実在感を伴った大きな存在になったわけで。
 まぁ凡人は、世俗を離れることは無理なのね、というメモでした。

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