デジタル

昨日は肺結核講演会後の懇親会で、たっぷりアルコールにありつけたため、メモはお休み。で、昨日メモしようと思ったこと。16日の読売新聞におもしろい企画が載っていた。50のカタカナ語を挙げ、14人のいろんな業界識者に、使っていいものかどうか、あるいは言い換え案があるかどうか問うものだ。たとえばインセンティブやグランドデザインなどは広辞苑にも載ってなく3人しか支持が得られていないが、ホームページやインターネットなどは全員○というような内容。


 これを見て、中学校で英語を習い始めたとき、なんで机が desk、本が book とそれぞれ一対一対応しているのかなぁと不思議に思った記憶がよみがえった。英語授業がいつから始められたのは知らないが、おそらく日本人の生活がかなり西洋化していたときからじゃないだろうか。江戸の寺子屋で、イスは chair だよと教えても、正座で講義を受ける子供らには実感できなかったはずだよな。
 ちなみにこの疑問に対する兄妹の一人の答えは「本はブックたい」だったと記憶する。訊き方が悪かったのもあるのだろうが、「そうじゃなくてぇ」というのが本心だった
 それでも一対一対応していないものがあれば、先人たちは、そのままの言葉を使ってきたんだと思う。たとえばナイフとかフォークとかね。その関連で考えると、50のカタカナのなかには入ってないのだが、デジタルとアナログの二つの言葉についてはどうなんだろう。
 デジタルとは,情報を1,0のようなとびとびの状態で表現すること、アナログとは連続する状態で表すこと。おもしろいことに これらは日本語の言い換えはなく、そのまま日本語として通用している。ということは、その概念は日本にはなかったということになるのかなぁ。
 たしかに”徐々に集まる”のを、”三々五々集まる”とか、”うだうだいう”のを”四の五のいわず”とか、連続なのか3なのか4なのか5なのか分からない表現をする民族にはなじまないのかもしれない。
 でもまさかね。コンピュータ-黎明期でも、日本の技術者や科学者が欧米の人たちに劣っていたとは思えないないから、きっとかれらは原語のニュアンスを大切にし、日本語訳を考えるのを遠慮したのだろう。
デジタルは及ばざるがごとしってわけね。

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