白河の関

学生のころ、”郷土愛”という言葉に抱いた違和感は今もずっと続いている。
身近な人に仲間意識を抱き、戦いになると仲間に熱を入れたくなるのは、自然な行為だと思う。でも、なぜそうなのだろう。

今年の高校野球で優勝旗が”白河の関”を渡った、とマスコミは沸いている。
でも、いったい”白河の関”を渡ることが重要なのだろうか。

いみじくも優勝校の監督は「全国の高校生のみんなが本当にやってくれて」と語った。
そうだ、高校野球部のなかで一番になった、それで充分ではないか。

監督がいうようにコロナは”青春って、すごく密な”状況を否定したが、コロナでなくても、それぞれの球児はそれぞれの困難を克服してやっているのだと思う。

寒い地域では積雪で練習時間が削がれるなど、そうでない地域との環境の違いが存在することは分かる。でも、個人や学校、それぞれが抱える困難のなかのひとつに過ぎないのではないか。

“白河の関”がグローバルな国の境になれば、問題はたちまち血生臭くなるような気がしてならない。昔から抱いている違和感だ。