対義語

「二人のクラウゼヴィッツ」(新潮社 霧島兵庫 著)を読んだ。

対ナポレオン戦争に従事したクラウゼヴィッツが主人公なのだが、その戦争当時のいわば”戦記”と戦争終了後のクラウゼヴィッツの「戦争論」を書き上げるまでの、”ふたり”のクラウゼヴィッツを、時代を前後させながら描いたものだ。

小説や戦記物としておもしろいだけなく、いまだ人生をふらふら漂う院長としては、いつかどこかで使ってみたいようなとても示唆に富む文言がいくつもあり、大変勉強になった。

とはいえ、ひとつ気になる点がある。
クラウゼヴィッツが戦争の対義語はなにかと妻に問うシーンがあり、「平和とはあくまで『状態』であり」、「戦争という『手段』の対義語にはなりえず」、「武器を使わない手段」である「外交、つまり『対話』」が対義語だと妻に語るのだ。

え、平和じゃないの、と素朴な疑問を抱く。
小説の文言は著者のものか、それともクラウゼヴィッツのものなのかは判然としないが、いずれにしても違和感を抱いた理由は、この二つの名詞のとらえ方を”状態”と”手段”という別々の視点で語っている点にある。

戦争と平和は、たとえば地域や単位時間あたりの死者数を数値化し、死因を、銃なのか大砲なのか病気なのか事故などか、などと列挙することで、異なったものとして表現できるはずだ。
戦争時には少ない人数であれ銃器での死者数や国境での死者数は増大するだろうが、平和時には、地震で何万人が亡くなっても、学校で銃が乱射され何人殺されてもそうした数値は現れない。

つまり戦争も平和もともに状態と手段を持っているのだ。

ということで、データ(状態)とメソッド(手段)で対象を表現しようとするプログラミングでいうオブジェクト指向を利用して考えてみましたが、どうでしょ。

個人的にはやはり戦争の対義語は平和の方がすんなり気持ちに収まります。

そもそも、あのトルストイさえ「戦争と平和」を採用しているじゃないですか。その名著とともに世界には戦争と平和という言葉は現実に広がっているのです。

本当に起きたことが歴史になるのではなく、語られたことが歴史になる、これが真実です。

あ、霧島さん、さっそく使わせてもらいました。