最近、知性について考えさせられる本を二冊読んだ。
ひとつは「ジェイムズ」(パーシヴァル・エヴェレット)、そしてひとつは「超知能AIを作れば人類は滅亡する」(エリーザー・ヨドコウスキー ネイト・ソレアス共著)だ。
「ジェイムズ」は「ハックスベリーの冒険」の続きとでもいうべきもので、教養のある黒人奴隷ジェイムズが奴隷制の元で自由を獲得しようとする物語。
彼が”うわさに聞いたことがある”「地下鉄道」(コルソン・ホワイト)ほど、生々しい描写ではないにしても、そして冒険小説風の装いをまといつつも、知性をもった動物しか行えない残忍な行動が諸所に描かれている。
そして「・・・人類は滅亡する」・
著者らがが終わり近くの章で”この本の核心は”とまとめているように「機械超知能の創造は正しく行うことが困難」で、そうなれば人類は終焉を迎えるという警告を発するものだ。
そこから生み出される危機は、核の問題と同様、あるいは人の知性の管理下で、回避可能かもしれないが、大きく異なるのは機械超知性はひとり歩きするかもしれないということだ。
それを補完するために、その破滅に至るまでの可能性のあるケースが余すことなく列挙されている。
もちろん著者らの警告は大いに傾聴に値するものだろうが、アンソロピックなどのニュースなどを見ていると、国家間の利害は著者らが提起するさまざまな規制など軽く超えて行きそうで、いずれ、それも早い時期に人の知性は機械に取って変わられるような気にしてならない。
はたして人が獲得した知性とはいったいなんだったのだろう。結局、それは種のなかに混乱を持ち込み、あるいは種そのものを絶滅させるための機能で、いわば進化のあだ花だったのだろうか。
thinker の過ち、などといった倫理的な言葉では捉えることができない、もっと本質的な問題をはらんでいるような気がしてならないのだが、知性の乏しいメモから語っても仕方ないか。
