ノーベル平和賞が日本被団協に与えられた。
ご自身の頬を引っ張り現実を確認する映像がテレビに流れるなど、長い間のみなさんの苦労が報われた報道を見て、同じ国に住むものとして心から喜びを感じる。
人類で唯一、核の悲惨さを体験した方々の核廃絶への思いがようやく世界に認められたということだ。
ただもやもやしたものを感じるのも事実だ。
権威を否定するつもりはない。あらゆるものにはそれに長けた人なり組織なりがあり、それらが指し示すものはおおよそ正しく、かつ傾聴に値するものだ。それが権威というものだろう。
ノーベル賞委員会はそうした権威をまとっているのは間違いない。
そしてその委員会が核の脅威を日本被団協への賞という形であらわしたわけだ。
ただ素朴に思うのは、なぜもっと早くにその権威付けを与えてくれなかったのだろうか。
変な例えになるかもしれないが、仮に重力を見出した、亡きニュートンを称え、その重要性を唱え続けるニュートン協会なるものがあったとすると、そこに今になって賞が与えられるような、それに似た妙な感覚がある。
実際に、会に関わられたメンバーの方はこの間の活動のなかで何人も亡くなられているのだ。
ロシアや朝鮮半島の被ばくの現実の歴史を知らない支配者が核を行使しようとしているから、というのはあまりにも遅すぎるのではないか。
発明された武器は必ず使われ、かつ最強のものであればなおさらなのは人類の歴史を見れば明らかだったはず。
と、まぁ権威のないこんなメモに同意する人がいれば、その人の権威が落ちるのは間違いないのだが。