「目の見えない精神科医が見えなくなって分かったこと」(福場 将太 著)

著者は北海道で精神科医として勤務している方だ。
なにかに少し戸惑っているような障がいを持った方を見かけたとき、正直、声を掛けていいのかどうか、判断に迷うことがある。

そこにある”不便さ”を無前提に共有していいものかどうか。
でも著者も語っているように、声を掛けられる方も千差万別で快く思われる人もいれば、その声かけを不快に感じる方もいるという。

そもそも不便、不自由という言葉は、使っていいものなのだろうか。不便と利便、不自由と自由、こうした言葉の対比は、なんらかの基準をもって言い表せるものだ。

見えなくなって見えてきたものがあるという。
つまりは、見えているものが、見えていないものがあるということだ。逆にいえば見えているものには不自由なり、不便さがあるともいえるのだ。

もちろん憐憫や同情などといった感情は、人が社会を作り上げるうえで重要な要素だろう。
だが、注意しないと、いつの間にか優越の感情がまとわりつき、そしてややもするとひとりよがりの否定形の表現につながるような気がする。

この本を紹介する言葉をいろいろ考えたが、結局、とてもがんばっておられる先生の本、ということに尽きるのではないか。。
自分や患者や周りの人に対し責任をもって生きておられるということ。

そう、どういう状況にあっても責任をもって生き、その様をお互いにリスペクトしあう、その重要性を語っている本なのだろう。

ちなみにそれぞれの要約が、節ごとに簡潔にかかれていることは、なにがいいたのか分からないこのメモより、はるかに便利なのはいうまでもない。