この題名にはとても深い意味がある。まず意味論の意味など分からずに使っている点だ。あまりに深すぎてすでに題名を考えた時点で溺れている。さらには”ロン”で終わる言葉はいろいろあるが、とりあえず無駄話をするという意味でサロンを用いている点も深い意味がある。
まぁとにかくネタ元を紹介してみよう。
人は小さな二つのもの、たとえばネコとネズミを見せられたらより小さい方に注意がいくという。
具体体には、ネコとネズミはどちらが小さいか尋ねられたときと、どちらが大きいかと尋ねられたときのそれぞれの答え、”ネズミ”と”ネコ”は”ネズミ”と答える方が時間的に早く口をつく。
逆に大きなもの、たとえばウシとゾウでは、どちらが小さいか尋ねられたときと、どちらが大きいかと尋ねられたときのそれぞれの答え、”ウシ”と”ゾウ”は”ゾウ”の方が早く、つまりは大きなものを先に認識するという。
ここで登場するのが意味論だ。こうした現象は、どうも距離とか数など比較するときに関与する言語の”意味論的適合性”というものが関係しているのではないかというのだ。
さっぱり分からない(注1)。だから今日のメモはほとんど無駄話に等しい。サロンと題した意味が理解していただけただろう。
とにかく言語を有するヒトだけに見られる現象だと思われていたものが、実験するとサルも同じような認識をしているというのだ(注2)。
大小を区別する能力と言語との関係の見直しが必要になるかもしれない、というのがネタ元の内容だ…たぶん。
現象の紹介だけでもおもしろいかと考えたが、やはり相当に無理があったようだ。
スタッフ「いつにも増して言語的体をなしていないメモですね」
院長 「はい」
スタッフ「したがってメモには大も小もない」
院長 「はい」
スタッフ「題もしょうもない」
院長 「なんとでも」
(注1) 分からないのは今日に限ったことではないので、あえて解釈してみた。
想像するに”小さい”とか”大きい”というのは単独では意味をなさない言葉だ。比較することで初めて意味をなす。だから小さいものを比較するよう見せられたとき、小さいという概念が先行しそれに引きづられてより小さいものへ、逆の場合は大きいものへ意識が向かうということじゃないだろうか。
(注2)大きい、小さいを報償を与えながらパソコンの画面の色で教えたあと、大きさの違うドットを出して実験したもの。
ネタ元
Monkey Math Mirrors Our Own
なるほど。
大小もふかいですね。
そうですね。深い。
深いついでに、”秋が深まる”という表現に対し”秋が浅まる”という表現は許されるのか、現在調査中です。
画像見て一句
「考え中 見方によれば 自殺前」 ロダン作。
少し高いとこに座ってますしね。