森田真生さんの「偶然の散歩」を読んだ。
数学者である森田さんのエッセイだ。なまくらに生きてきたものには、とうていたどり着けない深淵な言葉がちりばめられている。
ただ次の文章に出会ったとき、ふと頁をめくる手が止まった。題にもあるように森田さんはまだ幼い子供とともによく散歩に出るという。言葉はその子につぶやくようにつづられている。、
「短い足で、不器用に駆ける幼子よ。
僕は、君より先に死ぬだろう。
それは、僕にとって大きな希望なのである」
実は、これと同じような表現が他の箇所にもあったのだが、最初に目にしたときはしっくりしなかったものの、読み流していて、自分の宿題として残していた。だが、再度語られたとなると、じっくりと考える必要がありそうだ。
ということで勝手読み、第一弾。
実は、“父さんは、君たちより先に間違いなく死ぬだろう”、という思いを、わたしの双子の子らに抱いたことがある。お互いの生命を脅かす重大なことが起こらない限り、親が先に逝くというのは生物学的な宿命なのだが、それを考えるとき、その事態はいつもわたしにとって、大きな絶望でしかなかった。
子供らの目に映るものが、いつかは自分には見れなくなるのだ、そうした深い悲しみがいつも付きまとっていた。
ただ森田さんの文章を読んで考え直した。
永遠は一瞬の、本当に一瞬のつながりの連続なのだ。その一瞬を感じ続けることで未来は作られていく、それが、きっと大きな希望につながるのだろう。
そもそも未来を見ることができないからといって、”父さんは、君たちより長生きするだろう”では、そこにあるのは最初に抱いた思いとは比較にならない絶望ではないか、とはたと気づく。
勝手読み、第二弾。
森田さんのライフワークの一つとして、”永遠と一瞬”というテーマがあるのではないだろうか。本の締めくくりに、「永遠の散歩」と題した章がある。
そこで、いつまでも(forever)と一度きり(once)をテーマにした海外の小説を取り上げている。そこに出てきた「一度きりと永遠はどうしてこんなに似ているのだろうか」という言葉が執筆の際、なんども心の中に去来していたという。
数学者である森田さんの頭のなかには、この”いつまでも(forever)と一度きり(once)”を語るとき、微分の概念があるような気がする。一瞬がなければいつまでも続くことなどできないのだ。
と、まぁいろいろメモしたが、なにをいっているのか分からない人のためにぜひ第三弾を付け加えて置きたい。
買って読み、なさい。