ルーシー

今日のメモは「人はなぜ言葉を話すのか」(スヴェルケル・ヨハンソン)に少し便乗した感がある

言葉の起源について諸説を紹している本だ。確かに、言葉の起源は”冷やし中華始めました”、みたいな簡単なものではないではないことは百も承知している。その発達の背景にはチンパンジーなどと違い社会の相互信頼が必要だなどということなどはなんとなく理解できるのだが、たとえばプロト言語は突然現れたのか漸進的な変化なのか、あるいは心のうちで発展してきたのか、それとも手話的な言葉として発展してきたのか、などという問題は果たして答えが出るのだろうかと、門外漢ながら心配になる。

本でも述べられている通り考古学と異なり、なにせそれを証明する証拠がきわめて少ない。それでもなんとか謎を紐解こうとする言語学者の苦労が思い知れる本であった。

残念なが院長のような初学者にはやや難解だったかもしれない。
とはいえ、とりわけ興味を引いた点もある。話を理解しやすくするため古代人を主人公にした短い物語が半ページから1ページ程度でところどころで語られている箇所だ。

というのも、院長も30年も前のことだが、言語の起源もどきの物語を紡いだことがあるからだ。

そのお話の最後の最後にこう書いた。

「このお話は’93に書いたもの。おばあちゃん子であったわたしは、いつも彼女のそばにいたが、彼女の会話をいつも不思議な思いで聞いていた。本当に「あれがこれして」という風に語り、それでいて会話が成立していたのだ。決して女性を蔑視したものではないことをお断りしつつ、今はなき祖母をしのびたい」

祖母の命日にでも近かったのだろうか、まったく覚えていないが、そろそろ場所を変え祖母と面と向かって話す年齢になった。そのときは、「あれがこれしたから今日のメモをした」、と語ったらきっと祖母ならすべてを理解してくれるに違いない。


「ルーシー」

最近、みんなよくしゃべるようになったとルーシーは感じた。ルーシーたちは昔は鳥や犬のようにいくつかの限られた音しか出していなかったのだ。しかし最近は 「何が何してるのよ」 ぐらいのことを音の変化で相手につたえることができるようになった。
 相手は身ぶりを見て大まかな状況を感じることができる。昨日もルーシーが朝起きて朝食をたべていると、横から弟がつまみ食いしてくるので 「何してるのよ、あなた」 と文句を言って喧嘩を始めたら、母親が
「何してるの、あなたとあなた」と喧嘩の仲裁に入った。昔は「ナニ?」で喧嘩が始まり「何だ、何だ」で母親が登場するという具合だった。どうもとなりのムラのひとが”あなた”という言葉を作りだしたみたいだがよくは分からない。
 かりに親切な人がいて、誰が作りだしたかルーシーによく説明してくれてもルーシーはよく分からないだろう。おそらくルーシーのまわりの人も誰も理解できないだろう。
 ルーシーの父親はぐうたらだったらしいが、母親はルーシーに語らないからよく分からない。でも父親のぐうたらはルーシーにも遺伝しているらしく、ルーシーは朝食を済ませると後かたづけもせず、すぐに横になって弟と遊び始めた。母親が年頃のルーシーに身繕いをさせようと近づいたが、ルーシーと弟はそれを無視して追いかけっこやプロレスをして遊んだ。母親はあきらめてルーシーと弟の遊びをボーと見つめることにした。
 何を見ているというわけでもない。別にけがをしてもそれほど気になるわけでもないのだが、なぜか母親の習性がそうさせていた。
 しばらく二人は笑い声を出して走りわまっていたが、ルーシーは年取っている分だけ早くあきたようだった。そして他の同年輩の仲間たちと遊びたいと感じ、じゃれつく弟を無視し一人で広場へ向かった。
 少し草木がひらけたところにぶらぶらひとがたむろしている。腰掛けて木の実を食べているひともいれば、さっきのルーシーと弟のようにじゃれあっているひとたちもいる。だれか遊んでくれるひとがいないかと見渡すと、広場の片隅に小さなひとだかりができているのに気づいた。気になりルーシーはそこに近づいた。そして
「何、なに」
とルーシーはひとだかりの中をのぞきこんだ。別に何もなかったがどうも周りのひとがしゃべっているのを聞くと新しい言葉ができたようである。
「これ」
ととなりのおじさんが棒を持って言っている。となりのおばさんも小石をもって
「これ」
と言っている。どうも何かを指して言うらしいとルーシーは感じた。ルーシーはまねをしてみた。
「これ」
とルーシーはおじさんの下半身のぶらぶらしたものを持って言った。おばさんはルーシーの頭をこつんと叩いて
「コレ」
と言った。 じゃもう一度ということで
「これ」
と花を摘んでルーシーが言うとおじさんもおばさんも喜んで頷いた。ついでに先ほどのおばさんのように自分の頭をこつんと叩いて「コレ」 と言い、ついでのついでに舌をぺろと出すと、もっと喜んでおじさんとおばさんは頷いた。ルーシーはうれしく感じ、広場に来た目的も忘れまた母親と弟のいるところへ帰り始めた。
 来た道をぶらぶらと帰っていると,向こうから少しハンサムな青年が一人で歩いて来た。彼はルーシーの顔をじっとみつめると
「あなた何?」
 彼女も彼の顔を見つめながら
「あなた何?」
と質問した。自己紹介しようにもできない二人は態度で表現するしかなかった。彼は少しおどけてスキップするようにルーシーの周りを回った。ルーシーもその場で小踊りをした。ルーシーは彼に好意を感じたが、すぐにその感じは消え去った。彼もルーシーに興味をなくしたのか、回るのをやめて道を歩いていった。
 人類最大の出合いはこのようにごく静かなものであった。

 ルーシーは母親のところにたどりついた後、さっそく母親と弟に「これ」について伝えた。口で表現できないルーシーはいろいろ態度で母親に分からせようと努めた。母親は
「何が何だか」
と言ったが、若い弟はすぐに理解できた。
「何だろ」
と小生意気な切り出し文句で、さきほどのおじさんとおばさんのように小石を手に取っては、 「これ」 枝を手に取っては、 「これ」 と言ってルーシーに理解したことを示した。ルーシーは頷いて正しいことを伝えた。
 母親が理解できないでいるようなので弟は不思議に感じ
「これ、あなた」
と母親に向かって言った。 ”分からないの?”と言う言葉を続けたかったが弟にはできなかった。まだだれもその言葉を作っていなかったからだ。しかたなく”分からないの?”と疑問を感じた。
「何さ」
と母親はむきになりその場を去った。 ルーシーと弟が母親の成りゆきを何気なく見ていると母親は弟と同じように小石を拾い上げては「これ」、枝を取っては「これ」と繰り返していた。
 太陽が大いなる緑と山の端にかかったとき母親はようやく理解できた風でルーシーと弟に向かって、
「何だ、これね」
と小石を持って笑った。
 日が暮れかけるころ、3人は早い寝床についた。今からさかのぼること20万年前の西アフリカの大地は静かに夜を迎えていた。

 翌日もいつものように朝がやってきた。ルーシーが昨日と同じように朝食をたべていると、また横から弟がつまみ食いしてきた。
「何よあなた、コレ」
と文句を言ってまた喧嘩を始めたら、母親が喧嘩の仲裁に入った。
「何してるの、あなたはこれ、あなたはこれ」
と食事を分けてそれぞれに示した。ルーシーと弟は納得し、食事の後また遊び始めた。しばらく二人は昨日と同じように笑い声を出して走りわまっていたが、またルーシーは、やがて飽きてしまった。
 年頃のルーシーはまた昨日と同じように,同じ年頃の仲間を見つけに広場へ向かった。腰掛けて草を噛んでいるひともいれば、さっきのルーシーと弟のようにじゃれあっているひとたちもいる。そのあたりに遊んでくれるひとがいるだろうと向かっていると、広場の片隅に小さなひとだかりができているのに気づいた。気になりルーシーはそこに近づいていった。そして、
「何、なに」
とルーシーはひとだかりの中をのぞきこんだ。別に何もなかったがどうも周りのひとがしゃべっているのを聞くと新しい言葉ができたようである。
「あれ」
ととなりのおじさんが遠くの棒を指で差して言っている。となりのおばさんも遠くの小石を指で差して
「あれ」
と言っている。どうも遠くの何かを指して言うらしいとルーシーは感じた。 ルーシーはまねをしてみた。ルーシーはおじさんとおばさんを指で差して
「あれあなた」
 おじさんとおばさんは小首を傾げながら 「あれぇ―?」と言った。 じゃもう一度ということで
「あれ」
とルーシーが遠くの森を指で差して言うと おじさんもおばさんも頷いた。ついでに先ほどのおじさんとおばさんのように小首を傾げて「あれぇ―?」 というともっと喜んでおじさんとおばさんは頷いた。
 ルーシーはうれしく感じ、広場に来た目的をまた忘れ母親と弟のいるところへ帰ろうとした。
 来た道をぶらぶらと帰っていると向こうから昨日道で出会った青年が歩いて来た。
「あれ?」
と二人して言い、二人して初めて会うような気がしなかった。自己紹介しようにもできない二人は昨日と同じように態度で表現するしかなかった。彼は少しおどけてスキップするようにまたルーシーの周りを回った。ルーシーもその場で小踊りをした。   ルーシーは彼に長く好意を感じた。彼もルーシーに興味を抱いたのか、昨日より長く回っていたが、そのうち興味を失ったのかルーシーから遠ざかって行った。ルーシーの鼓動は間違いなく早く打っていた。
 人類最大の初恋はこのようなものであった。
 ルーシーは母親のところにたどりついた後、さっそく母親と弟に「あれ」について伝えた。口で表現できないルーシーはいろいろ態度で母親に分からせようと努めた。母親はまた、
「何が何だか」
と言ったが、若い弟はすぐに理解できた。
「これだろ」
と小生意気な切り出し文句で、さきほどのおじさんとおばさんのように遠くの山を差しては 「あれ」 遠くの丘を差しては 「あれ」と言ってルーシーに理解したことを示した。ルーシーは頷いて正しいことを伝えた。
 母親は黙ってその場を去った。  ルーシーと弟が母親の成りゆきを何気なく見ていると母親は弟と同じように山を差しては「あれ」、丘を差しては「あれ」と繰り返していた。
 太陽が大いなる緑の端にかかったとき母親はようやく理解できた風でルーシーと弟に向かって
「何だ、あれね」
と指を空に差しながら言った。その指の先には緑に覆われた大地に沈んで行く太陽があった。
 三人は早い寝床についた。ルーシーは母親に寄り添いながら恋について何か心に感じるものを訴えたいと感じた。それを感じてか母親はやさしくルーシーの肩を抱いて「あれこれ」 と言ったがそれから先は出てこない。母親はこう続けたがったのだ。-あれこれ考えてもだめよ。時が解決するんだから。母親にできることはルーシーを強く抱きしめることだけだった。
 20万年前の西アフリカの大地は大いなる愛にあふれていた。

 その翌日もいつものように朝がやってきた。ルーシーが昨日と同じように朝食をたべていると、また横から弟がつまみ食いしてきた。 ルーシーは弟の手を取り上げ
「あれ、何よあなた、コレ」
と文句を言ってまた喧嘩を始めたら、母親が喧嘩の仲裁に入った。
「何してるの、あなたはこれ、あなたあれ」
と食事を分けてそれぞれに示した。ルーシーと弟は納得し、食事の後また遊び始めた。しばらく二人は今までと同じように笑い声を出して走りわまっていたが、やがてルーシーは飽きてしまった。
 年頃のルーシーはまた昨日と同じように同じ年頃の仲間を見つけに、広場へ向かった。その途中で昨日の彼に出会った。お互いよく顔を覚えていなかったが、なんとなく見たような感じがしていたのでじっと見つめ会っていた。しばらくしてルーシーが彼に指を差しながら言った。
「あれ?、あなた」
 彼も分かったのかルーシーに指をさしながら言った。
「あれ?、あなた」
 昨日と同じでそれ以上の会話はなかった。
 二人はしばらく寄り添って歩いていた。二人ともお互いを紹介したいと感じていたが、前と同じようにただ互いの周りを回ったり、飛び跳ねたりするだけだった。しかし彼はルーシーの周りを以前よりもたくさん回り、ルーシーはより高く飛び跳ねていた。しばらくそんなことをしていると、彼は満足を感じたのか、すがすがしい青春を満喫するかのように腕を後ろにまわして胸をはり、空を見上げながら大きく深呼吸をした。すると木の上の方に紐みたいなものが見える。
「何あれ?」
とじっと見ていると、その紐はくねくねと動き始めた。ルーシーもなんだろうと感じ、上を見上げるとその動いているものに気づいた。二人とも”きゃ”と声を出し、這い這いの姿勢で草むらの中に逃げ込んだ。
 彼はルーシーを先に入れ、蛇がまだ襲ってこないのを見て自分も草むらの中に入り込んだ。しばらく草むらの中で二人はじっとしていた。彼が振り向くと蛇はもうすでに他のところへ去っていたので安心した。そのことをルーシーに告げようとしたが言えない。しかたなく背中を軽く叩いて合図しようと感じ、顔をルーシーの方に向き直したがそこにはルーシーの大きなお尻があった。彼はちょっとルーシーのお尻を触ってみたが、ルーシーが
「コレコレ」
と彼の手を払い退けた。触るのをやめてしばらくそのお尻を見ていた彼はなぜかムラムラとこみ上げてくるものを感じた。そして後ろからルーシーに声をかけた。
「ナニ、しようか?」
 ルーシーはよく分からなかったが心がときめいた。
 返事をしないでいると彼が後ろから抱きついてきた。ルーシーは
「あれ、あれぇ―」
と言ったが、彼は離さなかった。
 しばらくして彼はルーシーから離れた。ルーシーは、なんだか少し感じた、と感じた。
 こうして人類最大の妊娠が成立した。

 この「ルーシー」と題した話はとりあえずここで終わる。しかしここでいくつかのことをお話ししないとこの話は決着を見ない。このルーシーという女性は20万年前実在した人物である。といってもこの話のような人物かどうかは不明であるが。
 実は人類はアフリカにいた一人の女性から進化してきたと考えられている。そしてその女性の名前が研究者の間でルーシーの愛称で呼ばれているのである。これは何もルーシーがアダムとイブの片割れということを意味するものではなく、確率的な問題としてあるということである。つまり同じ様なルーシーがたくさんいてたまたまルーシーの遺伝子が広まって行ったという現象以上のものでないことはふまえて置く必要がある。その遺伝子は人が持っている遺伝子のごく一部分だけであり、女性だけに遺伝していく類の遺伝子である。
 このことは名前の伝播を例に説明すると分かりやすいと思う。例えば外から隔離された地域では、そこに住むいくつかの人の姓は長い世代の単位で見ればどんどん減って行く。仮に田中家と山本家がいたとすると名前は、善悪は抜きにして男性を通して伝わって行くため、ある世代の山本家がすべて女性だとするとその代で山本家は終わり、以後はすべて田中家の人となる。少しでも男性が多い方がその名前を残すことに関しては有利になり、長い経過の中で勝利者となっていくのである。そして何世代家の後、田中家だけの地域になるとそこの人は皆、田中家の遠い先祖から分かれてきたひとびとということになる。
 ルーシーはそういう意味で人類の祖先であり、母親なのだ。ルーシーの存在はいろいろな人種の遺伝子を調べることによって明らかになった。しかしルーシーの血を女性がちゃんと引き継ついでいることは遺伝子など用いなくても実は分かるのだ。  あなたのとなりのおばさんの会話をよく聞くといい。
「この前買い物に行ったらアレが何してさぁ、大変だったのよ」
 この「アレがコレして、何が何して」の言葉の中に明かな証拠が残されているのである。(と思う)