黙祷

あと数日で卒業式を迎える双子らが小学校から帰ってきて、こう話してくれた。「式の練習中、黙祷 があった」と。
それ以上、かれらは語らずそしてこちらも問わず、話題はたちまちほかに移ったのだが、あとでほのかな疑問がわいてくる。
かれらは目を閉じていたとき、なにを感じ、なにを考えたのだろう。

死者への祈りは、その死者への思いを抱いたものだけが意味をなすもの。震災があったとき、子供らは4歳。きっとなにがあったかさえ覚えてなく、ましてや亡くなられた方への思いなど皆無のはずだ。

命の大切さを考える機会だったかもしれない。だが、多くの人がなくなろうが、ひとりがなくなろうが、命の尊さには変わりはなく、黙祷すれば、命というあいまいなものが、震災で奪われた命の数の分だけ、まるで火柱のように形をなすなど、あるはずもない。

あらためて子供らに訊くと、手を組み目を閉じ、なにも考えずにいた、という。
せめて祈りのポーズを取れ続けただけでも、親として安心するところなのだろう。

でも、こうも思うのだ。
亡くなった”方々”への祈りは、わたし”たち”の思いではないか。
亡くなった”方々”へ、わたし”たち”は応援していると伝えることができるのではないか。もしそれが黙祷の持つ意味であるなら、いっそうのこと「がんばれ、東北」とできるだけ大きく声をひとつにする、そうしたささやかなセレモニーの方が、よほど意味があるのではないか。

いまだ荒涼とした東北の映像を見ると、心からそう思う。