抽象

個人で開業していると奇妙な体験をすることがある。このクリニックを仮に山田クリニックだとしよう。すると院内で携帯している患者から個人名を呼び捨てにされることがあるのだ。こんな具合だ。「いま山田にいる」
診療所呼び方学会がまだ結成されていないので、全国的にそういう事態が起こっているのかどうかは不明だが、携帯をしている相手に自分の居場所を告げているのは明白だ。


こうしたとき、いつも思い出す言葉がある。
映画「エアフォースワン」だったと記憶するが、側近が大統領になった人物に語りかけるのだ。「あなたの人格はもうない。あるのは大統領という抽象的な人格だ」
もし間違っていたら自分が作った言葉なので自分の才能に驚いてしまうが、とにかく気に入ったセリフである。
「いま山田にいる」とはまさに山田クリニックの院長の名前が抽象化されているのだ。つまりは大統領と同じ境地に立っているわけだ。
だがすぐに疑問がわく。”大統領が下した命令は間違っている”は抽象化された大統領であるのだろうが、”山田が下した診断は間違っている”となると、明らかに具体的個人を指している気がする。一体この違いはなんなのだろうか。
診察中にも関わらず、かかってきた携帯に断りもなく出たかと思えば、「いま山田にいる」と相手に告げ、そして”山田が下した診断は間違っている”となかなか治らない症状にいらだった眼でこちらを睨みつける患者を見ながら悩むのであった。

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