一本

 犬歯が一本、数日前からぐらついている。事態は深刻だ。もともと調子が悪く歯医者にいわせると根本までヒビが入っているらしい。だから身体のパーツから離れるのは時間の問題だと引導を渡されていたのだが、なんとか誤魔化し誤魔化し使ってきた。
 いざそのときが来るととまどってしまう。


 抜けたあとはいずれ部分入れ歯やインプラントでカバーできるとはいうものの、しばらくは歯がない状態が続くことになる。
 ところで歯が欠けている人が間抜けに見えるのは偏見だろうか。
 お歯黒の女性は歯が欠けているように見えるから、少なくともそういう風習があった時代は間抜けに見えるなどという見解はなかったのだろう。
 きっと口腔内の衛生を保てる人とそうじゃない人たちという構図が絡んでいるんじゃないかと思う。だから偏見といえば偏見かもしれない。
 ここまで考えてふと気付いた。もともと間抜けなやつはどうなるのだ。
 ひょっとして院長の場合、”ま”抜けな上にさらに一本抜け、それが横について”は”抜けになったのではないだろうか。
 そうだとすると、事態はさらに深刻だ。

 こうした不安と同時に、実はもう一つ不安を抱えている。今、あるトライアスロン大会参加のため、鳥取県の米子市に来ている。レースは明日なのだが、その最中に歯が抜けたらどうなるのだろう。練習中に歯を食いしばったから痛めたのは分かる。でもこんなことになるんだったら、もっと人生で歯を食いしばっておけばよかった。
 いやいやそんなことで弱気になってはいけない。血を吐きながらでも完走するのだ。
 でも痛いだろうな。抜けた歯が間違って気管にでもはいったら苦しいだろうな。
 いやいや迷ってはいけないのだ。気合いを一本入れようと鏡に映る己の顔をバシバシ叩く。
 すると犬歯が一本、返事をする。バッシ抜歯と返事する。
 歯もレースも相当つらいことになりそうですぞ、こりゃ。

 
 
 
 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。