ロック



 ロックスターたちは早死にしているという記事があった。ジミヘンしかり、ブライアンジョーンズしかり、ジャニスしかり。一般の死亡率とどう違うかなどという数字もいろいろ上げてあるが、要は早死にはクスリやアルコールが関与しているという、きわめて妥当な見解だけ納得すればいいという気持ちになった。
 それより記事を読んで、ふと思うことがあったのでメモしている。


 中学生時代はマイ、クラリネットを手にするほどブラスバンドに情熱を注いでいた。その楽器で奏でた曲に「どこか遠くへ行きたい」という名曲がある。歌詞はこんな風だ。
  どこか遠くへ 行きたい. 遠い街 遠い海. 夢はるか 一人旅. 愛する人と めぐり逢いたい … いつの日か 幸せを. 愛する人と めぐり逢いたい. どこか遠くへ 行きたい
 譜面を追いつつ、なんだか切ない気持ちになったの覚えている。そう、いつか今の生活を脱してどこか遠くに行くのだ、演奏しながらそんな心境になった。
 だがその実、演奏している音の元になる楽譜がきらいだったのだ。
 書かれた通りに演奏することへの反感とでもいうのだろうか、今にして思えば、そこそこ楽器をこなせるようになった生意気な若造の思い上がり以外のなにものでもないのだが、漠然ととはいえ譜面から離れもっと自由に演奏したいという思いがあったのだ。
 あるいは規則に縛られる生活への若者特有の反発だったのかもしれない。だが譜面を追うことしか能力のない青年の中学生時代は、思いを抱いただけで終わってしまう。
 それから数年、出会ったのがクリームやチェッペリンだ。楽譜から離れ自由奔放に音を出す彼らを見ていると、これこそ昔思い描いていた演奏だという実感がわいてきた。
 残念ながらまだ当時はロックをやる機会にめぐまれなかったが、それから4分の1世紀後、ギターでそうした曲を演奏する機会にめぐまれた。そして感じるのは、若いころあこがれた自由を得た満足感ではなく、結局ロックもきちんと守られた音の流れというルールのなかで演奏しているのだという、いわば諦念の感だ。
 もちろんブラスバンドンの譜面とは違う自由度をもった音楽ではあるし、その音の流れの理論を深めていけば、きっとさらに自由が開けるのだということまでは理解できている。
 その先にはジャズのような世界が待っているのかもしれない。
 そう思ったものの難解な音楽理論の前では立ち止まるしかなかった。そしてなによりテクニックの上達が望めない。
 つまりは若いころあこがれた自由への思いはとげられないままでいる。
 それでも未だ自由な演奏へのあこがれを持ち続けている。譜面通りの音を出すことさえできないというのに、だ。
 しばられた生活への反発、などという青臭い表現を使ってはいけないことぐらい承知している。おやじの妄想だといわれても否定しようがない。
 それでも心が自由を追い求めているのだ。
 理屈ではない。心情をいい表せば、つまりはこういうことになるのだろう。
 ロッカー遠くに行きたい。

ネタ元
Rock stars really do live fast, die young

“ロック” への2件の返信

  1. 最近、ブラスバンドが流行ってるようです。
    ブラバン甲子園ってタイトルのCDが売れてるようですよ。

  2. ブラバンクリニックって名前を変えたら、患者が増えるでしょうか?

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