オスカー

ちまたでは久しぶりの邦画のアカデミー賞受賞に湧いているが、13年前に受賞した「送り人」で与えられたオスカー像にきわめて至近距離で接したことがある。

高校の同級生がその制作に関与していたからだ。かれの名はエンドロールの最後の最後に出ていた。
そして数年前の同窓会のとき、講演とともにそのオスカー像を持参してくれ、さらには気前がいいことに触ることも許してくれたのだ。(もちろん手袋着用で)

100名以上が集まった会場の演壇に置かれた像の前には列ができていたのと、テーブルに置かれたアルコールの魅力に負け、席を離れ演壇までいくことをしなかった。

なかにはリタイア生活をしているようなやつもいるような同窓会だ。オスカー像に触れるといった行為は進化論的には意味がない。
つまり、像に触れたときの感想を、同僚や女性や上司やクライアントに語り、自分の立場をなんらかの形で優位にもっていき、自身の生存確率を上げる必要など、もうないのだ。

もししらふだったら、席を立たなかった理由をその場でそうきちんと述べることができたと思う。

ただ、テレビに流れるオスカー像を見ていると、ほとんど自慢するものがない人生を送ってきたものとして、触っておけばよかったと、そこはかとない後悔の念が頭をよぎるのである。