「かたみ歌」

うちのクリニックの建築は単純な長方形の組み合わせとは微妙に異なり、おおざっぱにいえば漢字の「下」のようになっている。書き順で「下」のはじめの横線が 1 で以下 2,3 と番号を割り振ると、これもおおざっぱに 1 のあたりに待合と患者用のトイレがあり、1 と 2 が分ける左の部分が受付と診察室、2 が診察室への廊下、3 がスタッフ用のトイレになっている。この 2 の廊下から 3 のトイレに入るとまず目に入るのが洗面台にある鏡だ。
その鏡に奇妙なものを見たのは、数年前の正月のことだった。

その日は三が日で、医師会から割り当てられた当番医だった。風邪が流行っていたのだろう、患者がとても多かった記憶がある。その忙しい診療の合間に、バタバタとスタッフ用のトイレで小用を済まし手洗いで手を洗っているときだった。
ふと鏡を見ると後ろの廊下を歩く人の姿が映ったのだ。明らかにそのときは鏡のなかを左から右へ、つまり 3 の廊下を下へ移動し、つまりはクリニックの奥へと向かっていたのだ。
ほんの一瞬だったから定かではないが、若い男性だったような気がする。でも奥は部外者は行き止まりで、そのときはなんの疑問もなかった。なんだったのかと訊かれれば、クリニックは狭いながらも迷った患者が廊下を歩いていたような気がすると答えただろう。
そんな具合でさほど気にすることもなく診察室に戻り、スタッフに、今奥に行った患者はどうなっているのか尋ねると、だれも廊下を奥に行ってないという。

わずかな時間ではあったが、それから「見た」、「いない」の押し問答が繰り返されるも、科学的立ち位置を堅持したいものとしては引かざるを得なかった。

書店で偶然手にした「かたみ歌」という本を読み終えた。朱川 湊人 という作家の作品だ。「アカシア商店街」の近くにあるあるお寺に秘められた不思議な現象を題材にしたもので、いわば身の回りにある、ほんとに小さなもので、大きな顔や風景などを描き出すアートのような物語だと感じた。

彼だったら、この三が日の経験をどう料理するのだろう、そんなことを思った次第。