聖人君子の定義は簡単だ。院長でない人物を指すことで十分だろう。
たとえばこんな具合だ。
患者さんが”読んでみたらいい”と先日置いていかれた本がある。
江戸時代、天領だった九州の日田を舞台にした松本清張の小説だ。詳細な時代考証を背景に展開するサスペンスもので、同じ日田出身の患者さんが故郷愛に満ちて推薦されたものであった。
500頁以上もあったがおもしろく、連休前の数日で一気に読み終えた。それも診療を休んでまでして、だ。
このように、いつだって自由気ままにやってきた。ビールもたらふく飲んできたし、お腹が空けばバターたっぷりのクラッカーも食べてきたし、睡眠を削ってプログラミングのことに没頭してきた。
どうやらそれが原因でからだにとてもまずいことが起こったようなのだ。
その本に出てきた、金の鉱脈を当てる山師の言葉にこんなものがある。
「運てやつはこころがりこんできたあとがたいへんなんで。これを育てるにはなみたいていの苦労ではございません。幸運は、そのあと、人間をあそばせてはくれません」
いろんな幸運があるだろう。宝くじが当たることもあれば大きな事故から免れることや恋愛での巡り合いもありだ。
院長の場合、聖人君子とはまったく異なる、不摂生の生活から出てきたものだったが、幸いにもなんら障がいを残すことなく事態を終えることができた。くだんの「西海道談綺」も安静中に読むことができたし、動作にもまったく支障がない。
ということで聖人君子のごとく生きるなど、遊びとはまさに真逆のベクトルだが、幸運はそのあとにはあそばせてはくれないというのであれば仕方ない。
ところで聖人君子はジョークを語っていいのだろうか。そんな疑問がふと沸いたが、もともとジョークともいえない代物なので、要らぬ心配などせず心静かに過ごそうと思う。血圧も上げたくないし。