A10神経

昨日よその病院の忘年会で、心療内科の先生と話する機会があった。普段は標準語を口にされるのだが、生まれも育ちも大阪だそうで、お酒を酌み交わすうちにお互い手の甲で、”ちゃいまんがな”と胸をたたき合う仲になる。ひょんなことから失恋の話題になり、悲しみにくれる人には、ときにうつを晴らす薬を使うこともあるが、それが関の山。恋は恋でしか治しようがおまへんなとのこと。うーん奥が深そうなセリフだ。メモしとこ。

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お休み

 今日は腎癌の講演会があり、その後の懇親会で疲れたため、メモは中止。
 ただ昨日のヒツジさんの件はまだ心にひっかるものがあるなぁ。現代医学の視点でものをいうと、輸血しなければならないほど出血していたとすると、青年はそうとう衰弱してただろうし、元気な人でさえヒツジの血を輸血すると拒絶反応でまいるだろうから、そういうバテバテの人にヒツジの血を輸血したら、一発で危険な状態になるんじゃないだろうか。
 で、そこから導き出される論理的結論。その青年はなんの病気かしらないけど、ヒツジの輸血などしなくても、、自然に元気になっていたんじゃなかろうか?、

 今日テレビで”九死に一生スペシャル”なるものの放送をやっていた。この”九死に一生”という意味についてのメモ。危うい状況であるというのは分かるのだが、その意味するところは、十回同じようなことが起こったら、九回は死に、一回は生き延びるということなのか、あるいは10人に同じことが起これば9人は死に1人は生き延びるということをいっているのか、どっちなんだろう。

2002年12月3日
 統計でいうところの”差がある”ということについて前から、なんとなくしっくりしない数字がある。たとえばAという薬とBという薬の効果を調べるとき、一方が平均0.5回効き、一方が0.7回効くというデータが得られたとしたら、それははたして効果に差があるのかどうかということを統計上示さなければならない。統計上の考え方は、二つの薬がもし同じ効果だとすると、という仮定から出発し、その場合、0.5と0.7という差が出るのは、”めったに”起らないということになれば、差があると捉えるんですよね。
で、その”めったに”というのは、だいたい100回あったら5回以下というのが、普通みたいなんだけど、日常感覚ではその数値はそんなに”めったに”とも思えないのですが、どうでしょ。100人いたら5人ぐらいほかの人より、たとえば背が高いとか低いとか、まゆが濃いとかうすいとかいてもおかしくないしなぁ。
 きっと理由は日常の捉え方としては、100というのは人数とか個数とかのように個々を捉えるんだけど、統計での考え方は、すでに統計量となっている0.5とか0.7を対象にしているからだと思うんだけど、なんとなく不思議。

 で、最初の話。”十回同じことが起こったら”、という方はすでに起こったことに対しての数値を示す統計量を問題にしているのに対し、”10人に同じことが起これば”、という方は個数を数えているような気がする。だって個数のほうは次に同じことが10人に起これば9人が助かることだって起こるかもしれないということなんでしょ。
 だから”九死に一生”は十回起こったら、九回はやばいぞっていうことになるのでしょうか。

 うーん正直分かりません。まぁ助かればそれでいいんでしょうけどね。

羊の血の輸血

メモ書きも5,6日目になるとだんだん要領が分かってきたが、安易な構想は慎むべきという反省のメモ。
 今日クリニックのスタッフ-あらかじめ断っておくが決して医療職ではない-から、輸血されたらその血液はずっと自分の身体を回っているのかと質問された。ヒトの赤血球の寿命はおよそ120日であることを話し、ついでに血液循環を見いだしたハーヴェイの話や循環というものが理解され始めたときは、ヒツジの血液をヒトに輸血したこともあるという話をした。その次にスタッフから出た質問が今日のメモの中心-そのヒツジの血を輸血されたヒトはどうなったのですか?

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