進化の技法

昨年もかなりの数の本を読破した。あまりに多すぎてほとんどの内容はよく覚えていない。少しぼけたのかとも思ったが、群衆を見てひとりひとりの顔を覚えていないのと同じだと思えば、ぼけの程度は軽いと納得した。

そうはいってもとくに印象深い本がいつくかあった。そのうちのひとつが「進化の技法」(ニール・シュービン著)だ。

進化論に関する本で、個人的にはドーキンスの「利己的遺伝子」に匹敵するほどのインパクトがあったものだ。
少し難解で、いつか機会があれば、詳細な解説書を出そうかと考えている。この本のページ数より少しばかり多く、厳密には2ページほど枚数を増した本になるだろう。最初に「解説にあたって」で始まり、最後に「謝辞」の院長直筆の頁が表表紙と裏表紙に貼り付けられた解説書になる予定だ。

その出版物が世に出回る前に、ここでとくに印象深くかつこの論旨の本質に触れる箇所を特別に紹介したい。

生物の進化が事実であることは、多くの人に受け入れられている。だがその事実を論理として説明することができる人はさほど多くないのではないか。

たとえば、かなりひとびとに浸透していると思われる「鳥は恐竜から進化した」という説はどうだろう。どうして恐竜の前足が羽になったのか、どれほどの人が説明できるのだろう。いったい何回前足をばたつかせれば羽になるというのか。

この謎を本書は解き明かしている。

「解説にあたって」で述べるつもりだったことをここで特別に披露したい。
たとえばなにかを習うことを考えてみよう。一途に熱心に心を白くして、そのものに打ち込むのだ。すると心のなかのその白いものは、やがてなくなり、形のあるものが現れてくる。最初ははっきりしないが、そのうちに身につくことになり、まるで羽が生えたごとく、うちこむ対象に自由に立ち向かうことができる、つまり、そこに羽が登場するのだ。

え、なにをいっているのかさっぱり判らないだって?やはり院長のぼけの程度は相当だった?
だいじょうぶ、早合点してはだめだ。確かに新年の深く厚いビールが残っているのも事実だが、これはそら言ではないのだ。

意味が分からない読者の多くは重要なことに気づいていない。つまり”習”の字のなかに潜む”羽”に気づいていないのだ。”白”いものがなくなり、やがて現れてくる”羽”、これと同じようにすでに生物の遺伝子のなかに羽の遺伝子が潜んでいるというのだ。

ともあれ、このすばらしいアナロジーは読んだ人にしか判らないと思う。これ以上の説明は無理だが読んでくれてありがとうとと「謝辞」に書くつもりだ。

あ、それと少しぼけた老人からの解説はなかった方がよかったかもしれない、とお詫びの頁を付け加える必要がありそうで、出版元が許せば、解説書は合わせて3ページほど枚数が増える予定だ。