将棋の日


 今日は将棋の日ということらしく、NKHが昼間特集をやっていた。大好きな羽生棋士が解説者、兼、対局者として出ていたので見ていたのだが、ふと思い出したことがある。随分前のことだが、これもNHKで、”お好み将棋”風の番組があり、そこで対局中の棋士の脳の活動はどうなっているのか調べる、というコーナーがあった。出演していた羽生さんの頭に脳電計をつけ、それを画像解析したのだが、ほとんど彼は右脳を働かせていた。
 芸術などの感覚的な活動は右脳で、計算などの論理的な活動は左脳でやっているというのは、もう常識。で、羽生さんは、そしておそらくほとんどの棋士は感覚的な、つまりパターン認識を繰り返しているらしい。いくつかの”形”をどんどん頭で描き、そのなかでより形勢を有利に導く”形”を選んでいるというらしいのだ。


 プロの囲碁棋士が自ら、「対局中、考えるのはごくわずかです」、といっているのをなんども見聞きしたことがあるし、ボクも結構高段者の碁敵とやっているとき、打つ手に迷っていると、「なに考えてるの」とときどきいわれ、この人考えないのかなぁと素朴に思ったこともある。偏見かもしれないけど、芸術家と数学者を比べると、数学者のほうが、”考えて”いるような気がするのはボクだけだろうか。いったい考えるってどういうこと?
 人の大脳の外側のほうと中のほうを比較して、中のほうは本能的なことがら、動物的なことがらをこなし、外側のほうは理性などのより人間的なことをこなしているとされている。まぁそうなんだろうけど、右と左の脳の進化論的な差というのはないのだろうか。ネズミさんだって、パターン認識を考えながら生きてるんでしょ? ドアがあるから避けようとか、壁があるからそばを通ろうとか、パターン認識してんだよな。きっと彼らは彼らなりに一所懸命考えてるんだと思う。人はそういうパターン認識で捉えることを、”いま考えているんだ”というように考えられなくなっているだけじゃないだろうか。そして進化の過程ではより最近獲得した、論理的思考を”考える”というように、まだ考えているだけのような気がする。
 1足す2はなぁーにって聞かれると、小学校のころは考えてたけど、このごろは考えないで答えられるもんなぁ。これなんか、ある部分では、論理的思考も”考えている”というように考えられなくなってしまっているという証拠じゃないだろうか。そして、より高度なパターン認識をする芸術家より、より低級な論理を考える科学者のほうが、考えているように見えるのはそのためじゃないだろうか。
 で、今日なにか考えたかというと、別に高級な感覚的な作業をしたわけでなく、論理的な思考をめぐらしたわけでもない。ドアがあるから開ける、ビールがあるから空ける。結局ネズミさんと一緒だったなぁ。

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