ぱられるわーるど


「ぱられるわーるど」

「緊急事態宣言だかなんだか知らないけど、コロナのせいで今日でここを閉めなくちゃいけなくなりました」
 なかば怒り声でスタッフのチーフがその場にいた参加者にそう告げたが、その直後、急に猫なで声になり、「でもまたいつか会いましょうね、絶対ですよ」と微笑でいる
 たしか山田という名前だ。この会場には三名のスタッフが常駐しているが一度だけ彼の顔をみたことがある。このプレハブ会場にいつもより早めに出向いたとき、駐車場の隅にやけに高級そうな車から彼は出てきた。車には似つかわない貧相な作業服を身にまとい,偶然出くわした勝代に愛想のいい顔で名乗ったのを思い出した。
 勝代の家のすぐそばにあるスーパーの駐車場に突然、このプレハブ会場ができあがったのは、2020年の年が明けての一月中旬だった。まださほど足を運んでいなかったが、それでも常駐スタッフから「カツヨさん」と呼ばれるようになったわけは容易に推測できる。まず会に集まる老人のなかで、上位に入る年齢だからだ。それに胃のあたりに抱えるやっかいな病気がますます見た目の年齢をさらに押し上げているはずだ。
 実はなんどかこの手の建物がスーパーの駐車場に建っているのを目にしたことがあった。一,二ヶ月の間、小さな教室程度の部屋に老人たちが集まっているのを見て、なんだろう、と思ったことがあったが、息子の安治と妻の幸子は口をそろえて、「あれは詐欺だよ」といってさかんに近づくのを制していた。なんでも世間話や健康話をエサにして集まってきた老人たちと親しくなり、そのうち高価なものを売りつけるというのだ。
「分かっているよ」と言ってはみたが、子供扱いされているような気がしたのも事実だった。そうした気持ちがあって、というのはきっと嘘で、やはり一番は胃の病気せいだと勝代は分かっていた。だれだって、あと数ヶ月、なんて医者から寿命にきっちり値札がつけられると、もうなんでもがどうでもよくなる。もちろん直接いわれたわけではないが、安治たちの様子を見ていたら分かる。
 そうはいってもやはり安治と幸子への負い目があったせいか、最初に行ったときのことを、孫のさなえだけには報告していた。
「なかに若いお兄さんが三人いて、とっても優しかったよ。とくにケンちゃんって子がね、おもしろいんだよ。最初の言葉が、カツヨさん、癌じゃないよね、だって」
さなえはおばあちゃんっ子だ。その証拠に日曜で両親が外出しているからこそ、ひとり部屋に閉じこもらず、居間のソファで横になりながら祖母の話を聞いている。そんなさなえは勝代の話を聴くと急に起きあがって姿勢を正した。きっとだれにでもいってるんだ、相手の弱いところにつけ込む詐欺商法、そう直感したさなえは声を荒げて答えた。「失礼な人ね」
「でも隠しても仕方ないからね、そうよ、って答えたの。そしてどこの癌か分かるって訊いたらね、目でしょって、どうして分かるのって聞いたら、がんは眼科の病気だからね、だって」
さなえにはまったくくだらないだ洒落でしかなかったが、よほど勝代は気に入っていたのか、もう一度繰り返しては笑っていた。
 さなえはさなえで、そんな祖母を見て、「あーあ」とまたソファにごろんと横になるのだった。

 その後、勝代はそのプレハブに数度行っては見たものの、なにかを売りつけられるような気配はなく、老人たちを集めては健康話や馬鹿話がお茶菓子とともに披露される場でしかなかった。ちょうどコロナが中国で大流行し始めたころで、そのコロナの話も出てはいたが、別にお隣の国の話以上ではなかった、はずだったが、たちまちのうちに山田さんの閉鎖話になってしまったわけだ。

 それまではきっと高価なものを売りつける環境作りだったのだろう、そしてきっとうまくいっていたと、勝代は思う。もしなにかを売りつけられても、いままで楽しませてもらった分、そこそこ高くても買ってあげてもよかったのに、などと漠然と思うのだ。そしてそれ以上に寂しさを感じた。ほかの老人たちも、金銭的な考えは分からないが、ズバリ寂しいと口に出すものもいて、同じ心情であることは手に取るように理解できた。

 山田さんとほかのふたりのスタッフが外に出て、ゾロゾロと出入り口に向かっている老人たちに丁寧な挨拶をしているさなか、ケンちゃんが近づいてきた。。
「カツヨさん、ちょっとお話が」そういって会場の別室、といってもパーテーションで区切られた机が一つおける程度のスタッフ休憩室に誘った。
 ふたつあるスティール椅子の一つに勝代を促し、ケンちゃんは「突然だけど」と話を始めた。その言葉通り、まったく突然の内容だった。
「自動車で地デジのテレビ番組を聴いていると、ごく一瞬だけど音が切れ、その切れたところからこれまた、ごく少し手前からの音声が繰り返して流れるってこと、経験したことありませんか?」
「自動車はあまり乗らないからね」とは応えてはみたものの、いったいなんなのこの話?
「あ、そうか、でもね、そんなことが実際あるんですよ、それも結構な頻度で。リアルタイムの音が急に途切れて繰り返される。ぼくなんか一瞬タイムマシーンに乗ったような感覚になるんです」
「そう・・・それで、なにか困ることでもあるの?」なんとも話の趣旨が見えてこなかったが、勝代は話しをつないだ。
「別になにも困りません。でもよく考えてみてください。もし十二時の時報がなった瞬間に音が切れ、そしてもう一回、ほんの少しあとだけど、また時報が流れることになるんですよ。一体どっちの時報が本物なの?って思いませんか?」
「そんなことがあれば、確かに迷うかもしれないわね」
「でしょ?で、あれってパラレルワールドの入り口じゃないかと思うんですよ。これを見てください」
 ぱられるわーるど?と、きょとんとした勝代の前に、ケンちゃんはスマホを取り出し。指をスライドさせて差し出した画面には横に長く続くギザギザの波の画像が映し出されていた。ところどころ色分けされていてなんとなく美しい模様だ。
「これがその音のひとつ。ほらここでここで音が切れて、その前後で同じ波形があるでしょ」
 ケンちゃんの語り口調にはいつものセールストークとは異なるある種の弾みがあることに勝代は気づいた。ケンちゃんは続ける。
「この同じ波形の間がくせものなんです。ここにパラレルワールドに移行できるエネルギーが凝縮されていると思うんですよ、一秒にも満たない時間ですけど」
「ぱられるわーるどにいこうするえねるぎー」勝代は頭のなかで言葉を紡ごうとしたが、どこから手をつけていいかさえも判断がつかない。それでもケンちゃんは続ける。
「何百個のそうした音を集めたんですよ。何百個も。そしてその部分だけを繋げた音声を作ったんですよ。思いが叶う世界に行くためにね。実はこれ、ここの会社とはまったく関係なく僕の個人的な商品なんです。労力だけでも、これって相当高価だと思うんですよ、でもカツヨさんは特別。だってご高齢だし、病気もお持ちだし。だからレコーダー込みで、いくらでも結構なので譲りたいんです」
結局、なんの話かはつかめなかった。でもケンちゃんは憎めない。どうせこんなおもちゃみたいな機械も数千円もしないだろうし、何百回の音を録音したとかいっているけど、本当じゃないでしょ。でも、もう会えないかもしれないし、と財布にあった万札三枚と千円札二枚をケンちゃに手渡した。もちろん安治と幸代さんには内緒だ。受け取ったケンちゃんは破顔し、ぺこりと頭を下げ「きっとよくなります」といって急ぎ外の三人に合流して行った。

 ボタンは再生と停止と録音の三つしかない小さなレコーダ。かりに他に機能があってもどうせ分からないからそれで充分と手の平のなかのものを眺めてみたが、やはり少し高すぎだったような気もしてきた。でもいまさら仕方がない、そう思ながら付属のイヤホンを耳に当て、再生ボタンを押してみた。なにも聞こえない。ジーという音以外、ほかの音はない。ジージージー。微妙に異なるジージージーが十分ほど続くだけ。
 やはり安治たちのいう通りなのか、そりゃそうだよね。仕方ないね、と聴きながら考えたが、でも聴き続けているうちに、あることに気がついた。不思議に心が落ち着いてくるのだ。
 あれ、ケンちゃんがいってた言葉なんだったっけ?ぱられるわーるど?いったいなんなの。
 勝代は、さっそく学校から帰宅したさなえを捕まえ訊いてみた。

「おばあちゃん、なんでそんな言葉に興味があるの」
どこから話していいやら見当がつかず「ちょっとね」と言葉を濁す。さなえは、ふーんといって、「わたしもよく知らないけど、わたしたちいる世界と違うわたしたちがいる世界がある、ってことじゃないかな」と話し始めた。
「どこにあるのよ」となんとか話について行こうとしたが、それ以上は限界。そして若い孫もきっと同じだったようで、「そんなの知るわけないじゃない」と切り返してきた。
 結局よく分からないままだけど、でもなんでもいい。自分の年に不満はない。でも病への不安は、いくつになってもそれなりにあるのだ。もし、今の不安な気持ちが違うところに行くんだったら、それはそれでとてもありがたい。
 それにケンちゃんはこれを聴けば「きっとよくなります」っていっていたような気がする。
そしてつれない返答を悪く思ったのか、後日さなえが教えてくれた話も、勝代のその気持ちを後押しした。
「パラレルワールド、あれからさ、クラスの男の子に訊いてみたのよ」勝代は礼をいって、話に聞き入った。
「世界がどんどん分かれて行っているんだって」ふたりはじっと顔を見合わせた。
「だよね、ばかばかしいよね。でもね本当に世の中、そうなっているかもしれないって、その子、いってた」勝代はそうなの、としか応えようがない。
「でもそのとき思ったのよ、分かれた世界にいる人たちはそれぞれどうして分かれたか分かるのって。それでその子に質問したら、だよね、っだって」
 勝代もつられて笑ったが、それで充分な気がした。分かれようが分かれまいが、きっとよくなる世界に行ける、きっとケンちゃんはそういいたかったのだと信じたかった。

 そういうわけで、勝代は時間があればイヤホンを耳にし聴き続けていた。といってもそれほど集中しているわけでもなかった。テレビでIOC会長が2020年内のオリンピックを延期するとか、コロナ感染者が世界で何人超えたなどと時事のニュースが流れたときなど、「今なんていったの?」などとイヤホンをはずして周りのものに尋ねたりしていた。二回目の東京オリンピックまでは、と自分を鼓舞するかのように語るのを耳にしていたさなえたちは、オリンピックの延期を聞いて気落ちする勝代を見るに忍びなかった。

 録音は勝代の心に安寧を与えてくれたが、「きっとよくなります」とのケンちゃんの言葉とは裏腹に病気には影響がないように見えた。結局、勝代のからだは医者から付けられた値札どおりに弱っていった。食欲は徐々に落ち、体重も徐々に減り始め、そしてレコーダを手にしてから半年後に勝代はこの世を去った。

 葬儀を終え周りの事態が落ち着いたのは七月だった。勝代が抜けた日常は元の日常ではなかったが、それでも日常が戻ったその月のある日の夕方、安治の家庭でこんな会話があった。、
「ふたりだけの秘密だよ、っておばあちゃんはいってたけど、もういいよね」そう自分に諭すようにさなえは切り出した。「おばあちゃん、安っぽいレコーダ持ってたの知ってるよね?」との問いに安治と幸代は頷く。「それを聴くと違う世界に行くことができるんだって。一度、聴かせてもらったんだけど、ザーという小さな音が聞こえるだけ」
 なんだそれ?と少しあきれ気味に父親が答えるが、さなえは続けた。
「きっと聴きながら自分が元気だったときを思い返していたんだと思う。じゃなければ元気になったときのイメージトレーニングでもしてたのかな」
 なによそれ?と安治の真似をしたのか、幸代も繰り返す。そうだね、違う世界に行けるなんてないじゃない、ふたりのいうとおり、なんだそれ、だね、とさなえは思い直した。そんなことより明日は七月二四日、オリンピック開幕の日だ。それを口にすると、両親も頷いた。
 実は世界中のコロナが突然収束し始めたのだ。科学者たちはことの解明に着手したばかりだったが、オリンピック開催の追い風になったのは間違いない。それにも増して国際チームがとてつもないスピードで開発したワクチンがさらに開催を後押した。その結果、いったん延期を口にしたIOC会長は年内の開催を再び宣言したのだった。
 つまりは、事態はばたばたと好転し、明日は文字通り、2020オリンピックが開催されるのだ。

 そして当日。見上げると、そこには抜けるような青空があった。2020オリンピックの開幕の日。航空隊のジェット機が描くその青空に浮かぶ五つの輪がそれを物語っている。
 家の外に出てさなえは空を見上続けた。
「おばあちゃんも一緒に見れたらよかったのに」
蝉しぐれのなか、さなえはひとり寂しくつぶやいた。

 その空の下、ケンは田舎道をゆっくりと車を走らせていた。車内にはカーテレビが受信した地デジの音がいくぶん音量を上げて流れている。
 山田さんは「世の中の休みの日に合わせて会をやると、じいさん、ばあさんたちの家族が来るかもしれない」といってはいたが、ブラック企業とはいえ、休みをくれるのはありがたい。とはいっても緊急事態宣言が解除されたのはつい数週前でそれまではリモートなんてできる訳もない会社では、ステイホームを続けていたのだが。まぁ、とにかく休みのおかげで新たなパラレルワールドの入り口を見つけられる。
 最初、同僚にその入り口の話をしたときのことを思い出す。
 箸にも棒にもかからない自分をスカウトしてくれた山田さんに会ったのは、あの入り口を経験したあとだった、そう語ったところで、同僚は大笑いしそれ以上、ケンは話すのをやめた。
 でも五千円を拾ったときも、ゲーセンで希望の品をキャッチできたときも、ドーナツ店でスキなバイトの女の子がいたときも、ほかにもたくさんあるけど、全部入り口のエネルギーを感じたときだった。
 考えてもみろ、地面の五千円に出会わなかった人生、ゲーセンでなんにもキャッチできかった人生、、ドーナツ店に行ってもスキなバイトの女の子がいない人生、そんな人生もあるんだってこと。そう笑い続ける相手にいってやりたがったが、まぁいい。同僚と違って、おかげでこっそり小遣い稼ぎもできている。それも山田さんほど悪いことをしているわけでもない。実際に音を採ってそれを売っているのだ。それも、買ってくれた人にとって、いいことが起こるワールドになるかもしれないなら、いうことないじゃないか。
 とそのとき、突然地デジの音が途絶え、ごくわずかの間を置いて一秒足らず前の内容を繰り返した。ケンはすかさず時計を見た。十一時五八分、と声に出す。ドラレコが音を拾っているので別にいう必要はないのだが、頭のなかに記憶する意味でも常にやっていることだった。時間さえ覚えていればあとでドラレコの音を編集するとき、無駄が省ける。
 やがてまもなく正午の時報を知らせる音が入り、地デジ番組が昼の情報番組に変わった。いつものオープニング音楽に続き。司会者が挨拶をする。
「こんにちは、今日は本当に残念な七月二四日となりました」
 ケンはふと思い出した。そうだった、今日はオリンピックの日で休みだったんだ。司会者は話を続ける
「まずは拡大するコロナ関連のニュースから」
 うんざりしたケンは遠くの空を見つめた。そこには五輪のマークにも似た雲がぼんやりと浮かんでいた。(了)