粛正(しゅくせい)


昨年11月から始めたHPが、クリニックのほうの「病気」のページをアップロードしたため、な-んとなく一段落したような気がして、今日院長室の大掃除を久しぶりにやった。とにかく本が場所を占め、収納場所もなくなり始めたため文庫本とか単行本とかを、三,四百冊図書館に引き取ってもらいに持っていく。文庫本はほとんどゴミ同然の扱いを受けるのだろうけど、100冊近い単行本は保存状態もよく、きっと命拾いして図書館でまた長生きすることになると思う。


学生のころ、欲しかったある全集があり、当時持っていた本のうちおよそ本棚(けっこう大きめだったなぁ)2つ分を古本屋で換金したことがある。それ以来の、本の”大粛正”だった。ここ院長室に残るかどうかの基準は科学にしろ文学にしろ歴史にしろ、とにかく事実を中心に内容を形成しているかどうかというもの。別の視点でいうと小説などのフィックションのたぐいは真っ先に”クビ”。
でもある意味、小説なんてのは、単純な事実をより複雑化しているものであって、それはそれで大事な書物なのかなぁって、図書館での粛正のあと、ふと思った。
ニュートンの「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」の第一章は、彼の時代からでも1800年前のユークリッドの幾何学原論風に書かれているらしい。実際ニュートン所蔵のユークリッド原論の本には、メモ書きがたくさんしてあるのを見たことがある。考えてみれば、”平行線は永遠に交わらない”というユークリッドの、いってみれば単純な”現実”から出発し、より現実を複雑化しているだけの物体の運動を考察したのがプリンキピアなんだよなぁ。
そのアナロジーでいけば小説なんてのも、より現実を明らかにしている重要な書物なのかもしんない。
じゃあなんで小説を粛正したのかって話に戻るけど、それぞれの作者で事実の描きかたが違う点にあるからだろうなぁって思う。
実際、司馬遼太郎さんの本は、長編であれ小編であれ粛正されずにいまだに院長室にあふれかえってるし。
でもね、院長室の外の廊下では、そのどちらかはっきりしないような本が五百冊ぐらい積まれたままになっているんだよなぁ。雨の中、持っていく箱も足りなかったし。彼らの、こんな声を聞くと、どうしようか迷う。
勝手にシクセイ。
明日の夜までに決めねば、整理がつきませぬ。

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